akechi’s diary

今日も大丈夫です

【191212】読んだ:芥川也寸志『音楽の基礎』

社内調整と来四半期の組織計画が佳境を迎えており、ブログ書いてる場合じゃねえ!という状況である。一方で社内調整のような非生産的な(具体的なスキルアップを伴わない、程度のニュアンス)業務ですり潰されているときほど、インプットやアウトプットをしたくなるのも事実……。

 

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結構ずっと疑問に思っていたことがある。

 

「オクターブ」ってなに?

 

音の高さという概念についての自分の理解として、西洋音階すなわちドレミファソラシドレミファソラシドレミ…というのは一定間隔の高低差を持った音の階段、つまり周波数の等差数列に対して記号を当てはめたものである、というものだった。


じゃあ、じゃあですよ、

 

「ド から シ」で一周というのは、なんでそうなったの?

 

勝手に人間がその階段に区切りをつけているのではないのか?「ドとミ」も「ドと(その上の)ド」も、本質的には段数の違いだけであるとすると、なんで「ドとド」のときだけ1オクターブ上がることになるんだろうというのがずっとわからなかった。決めの問題ならそれでいいにせよ、例えば男が女性ボーカルの歌を口ずさむとき、1オクターブ下げた音階で歌うのがもっとも音として自然に感じることは本当に意味がわからなかった。だって「ド から シ」で一周って、勝手に人間が決めたルールでしょ。なんでロジックが人間の感覚に先立つんだ。

 

…というような疑問への答えを求めて本書を読んでみたら、ようやく、ようやくオクターブの意味がわかった。オクターブ、そして音階というのはつまり、周波数の等比数列なのだった。等差数列ではない。周波数が倍になるとオクターブがひとつ上がる。人間の耳・脳は周波数が倍の音を「同じ性質のもの」として捉えるように出来ているらしい。から1オクターブ上げ下げしたメロディがもっとも自然なのですね。そしてドレミファソラシというのは、ド~次のドまでの、周波数が倍になる区間をうまいこと12音に分割したものである、ということ。音階と音階の間の周波数差は一定ではないのだ。つまり最初にオクターブというひとかたまりがあって、その後に内訳として個々の音階があると。ピタゴラスがなんやかんややって上手くオクターブを12音に分割する、ピタゴラス音律というものを作ってそれが現在の西欧音律のベースになっているらしい。すごいな……。えらゴラス……。

 

本書を読んでもうひとつ面白く感じた気づきが、音楽とは「多重に言語的なもの」なのだなということ。音楽の目的としてひとつ確実に、「イマジネーションの想起」が存在すると思う。神との交感だとか、自然への畏怖だとか、恋愛感情だとか。ダ・ダ・ダ・ダーンが運命の扉を叩く音とされるように。一方で音楽とは突き詰めると周波数とリズムの順列組み合わせであるわけで、記号を用いて非言語的なものへ到達しようとするこころみ、これは言語といって差し支えないと思う。そこに重ねて言語的であるのが、記譜法の存在だ。本書では記譜法の歴史や成り立ちについて非常に多くの紙面を割いており、それがどれだけ音楽のなかで重要なものであるかがわかる。イマジネーションをメロディとリズムによって言語化し、それですらさらに不定形なので記譜法によって言語化する。再現芸術でありながら一回性の極めて高いものであるという矛盾、ここにひとつの音楽の愉しみがあるのではないかな。どうかな。

  

音楽の基礎 (岩波新書)

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